のるまで るこう

み み

暑い夏の季節がやってきますな今日この頃

【落ち込んだ時に】は『風の歌を聴け』

どうしても書きたかった記事がある。村上春樹さんの小説、『風の歌を聴け』に含まれる1文を紹介する記事だ。この1文は、日常に対する僕の認識を大きく変えるものとなった。困ったとき、迷ったとき、つらいとき、僕はいつも、この1文を振り返る。『風の歌を聴け』を含む「羊三部作」と『ノルウェイの森』に関する若干のネタバレ有り。読了目安10分。

江ノ電の写真とブログ
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僕を救済した『風の歌を聴け』

ブックオフで100円で手に入れた村上春樹さん著作の『風の歌を聴け』には、「昭和57年7月15日第1刷発行」「昭和59年4月27日第7刷発行」と印されている。定価220円。カバー装画は佐々木マキさんであり、講談社文庫より出版されている。この記事を書いている今は2016年12月19日。昭和57年は西暦に換算すると1982年。おそろしく昔だ。

この本は、村上春樹さんの1作目の長編小説となる。のちに「羊三部作」として知られるシリーズ物語の1作目でもある。その1作目の序章は、主人公である僕という登場人物の俯瞰的(ふかん的)目線による文章に対する考察から幕を開ける。この序章の中に、僕がとても大切にしているその1文も含まれていた。以下に、引用する。

僕たちが認識しようと努めるものと、実際に認識するものの間には深い淵が横たわっている。

村上春樹著作『風の歌を聴け』より引用



どうだろうか。一見するとなんの変哲もないこの1文に、僕は完全にやられてしまった。僕の人生に対する解釈はこの文に出会ったことで、大きく揺れ動いた。

僕が、初めてこの文章を目にしたのは、高校生のときだった。友達は少なく、通学のお供は読書とMDウォークマンだ。その時は、この1文はただの序章の中に含まれる、ただのなんの変哲もない1文にすぎなかった。村上春樹さんといえば『ノルウェイの森』といった流行があって、読書青年であった僕は、『ノルウェイの森』を手にしたのだが、当時の僕には、そして今の僕にも?重ねてきた場数が少ないのか?ディープな恋愛をしていないのか?はたまた死することに対する認識がたりなかったのか?さっぱり分からなかった。

せっかくだし、もう1作くらい村上春樹さんに触れてみようと手に取ったのが、この『風の歌を聴け』であった。こっちは当時の僕にもすんなり読めた。『ノルウェイの森』は、簡単に俗っぽく表すならば、「濡れない女と恋愛こじらせ男が奏でる不思議な世界観」であったが、『風の歌を聴け』は、「かっこいいハードボイルドな男の冒険の物語」であった。読んでいてとても楽しかった。世の中を斜に構え、やんちゃで、女にあふれて、酒におぼれ、ナルシストな大学生にあこがれていた高校生にはぴったりのテーマであったと言っても過言ではない。そして僕は村上春樹さんのファンになった。1作目である『風の歌を聴け』から順番に、彼の小説をすべて読破した。そして、理解したつもりになっていた。

あれから月日は流れ、28歳。『風の歌を聴け』の主人公と同じくらいの年齢となっていた。僕は一部上場企業に勤める会社員になっていた。半同棲状態の彼女もいた。結婚の話も出ていた。一般的には、幸せな状態に見えるのかもしれない。しかし、僕の心の中は、そんな「幸せな状態」とは、程遠いものだった。どれくらい遠かったかと聞かれれば、少なくとも 地球と太陽の距離以上に、遠かったといっても過言ではない。

僕は人生がつまらなかった。

仕事に追われ、休日は彼女とのデートに追われ、将来を手のひらに透かして見れば、結婚式、子育て、住宅ローン、子供の教育費、両親の介護など、それは金銭的にも精神的にも、僕にはまったく魅力的なものには見えなかった。僕の人生も、凡庸(ぼんよう)なものに終始してしまうのだろうかと感じた。そして僕はうつ病となった。会社に通えなくなった。

何をしてもつまらなかった。何を食べてもおいしくなかった。今まで楽しいと思ってハマっていた趣味はすべて無くした。どこに旅行しても既視感しか感じられなかった。ただ毎日が繰り返されるだけ。夢もなければ希望もない。現実が幻想のように感じられた。たくさん持っていた洋服を捨てた。たくさん集めていたCDを捨てた。たくさん集めていたカメラを捨てた。たくさん集めていた思い出も捨てようとしていた。僕は自分を失った。

そんなときに、残すか捨てようか迷って手に取った本が『風の歌を聴け』だ。この本をつかんだ時、高校生の時に感じた未来への希望と将来に対するあこがれを、少しだけ思い出した。会社は休職状態だったので、当時を思い出しながら、腰を据えてゆっくりとページをめくった。するとどうだろう。あの高校生の時に既読しているはずの本の中には、まったく違った世界が広がっていた。

ここでもう一度、1文を引用しよう。

僕たちが認識しようと努めるものと、実際に認識するものの間には深い淵が横たわっている。

村上春樹著作『風の歌を聴け』より引用



どうだろうか。何をしてもつまらない、そして希死念慮にとらわれていた僕の脳内に、この1文はまるで魔法のフレーズのように再生され繰り返された。今の僕なりに解釈をするならば、「現実というものは、認識しだいで、楽しくも悲しくも、いかようにもとらえることができる。だけれども、その現実に完全に近づくということはあり得ない、同時に、自分の認識が他人の認識と一致することもあり得ない」といったところだろう。

僕は他人の人生を生きていたのだ。周りの大人が「理想の中」で認識した世界、となりの彼女が「こうあって欲しい」と願う世界、常識によって「こうあるべき」と語られる世界。それらはすべて、僕が「こう在りたい」と感じる認識とは違う。そしてその認識と、周りの大人たちが認識する世界が一致している必要なんて、まるでなかったのだ。この1文はこのようにして僕の人生観をまるっきり別のものに変化させ、僕は現実に引き戻された。

『風の歌を聴け』の序章には、その時の僕をうごめかした言葉が多く記されている。というかこの物語の序章は、そいうった類(たぐい)の言葉で埋め尽くされている。もう1つ紹介しよう。

文章をかくという作業は、とりもなおさず自分と自分をとりまく事物との距離を確認することである。

村上春樹著作『風の歌を聴け』より引用



この小説は、いくつもの視点で現実を俯瞰(ふかん)したかのような構成で成り立っている。序章で抽象的な言葉によって表したこの世界の理(ことわり)を、それ以降の章で具体的な事象によって表現することで、より分かりやすく伝えてくれる。どのように世界を認識するのか、解釈するのかによって、世界の見え方は全く異なるものになる。世界は美しいものであふれている。

最後に、もう1節だけ、好きな文章を紹介して、この記事を終わりにする。

弁解するつもりはない。少なくともここに語られていることは現在の僕におけるベストだ。つけ加えることは何もない。それでも僕はこんな風にも考えている。うまくいけばずっと先に、何年か何十年か先に、救済された自分を発見することができるかもしれない、と。そしてその時、象は平原に還り僕はより美しい言葉で世界を語り始めるだろう。

村上春樹著作『風の歌を聴け』より引用



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