み み

鎌倉江ノ島の観光を写真多めで発信中!

鎌倉江ノ島の観光情報を写真多めで発信中です。更新がんばりまうす。

学問に対する考察#001【シリーズ】

大学生や高校生の学生読者のみなさん、お子様が受験生なお父さん、お母さん。大学院まで卒業した僕が、学問に対するうんちくをうんちくするよ。興味があればぜひ。かしこく生きるためには「学校で教えてくれることなんて、真に受けちゃダメ!」って話がしたい。

江ノ電の写真とブログ
[ Located in : 江ノ島電鉄沿線 2016年12月 ]
[ Camera : PENTAX K-5ii ]
[ Lens : PENTAX smc PENTAX-DA 55-300mmF4-5.8ED ]

教育って何?

誰もが一度は考えたことがあるこの疑問。僕もテストの季節がめぐってくると、グルグルと考えては、机の上を片付けて勉強する準備だけを整えて満足していた。

結論から話そう。世の中を、社会を、人間関係を、中立な立場で客観的に眺めるためには、どうしても学問は必要なんだ。この結論に持っていこうと思う。


まずは、この話からはじめてみる。

司馬遼太郎著作の『坂の上の雲』の中には、以下のような一節が記されている。

全国を風靡している思潮は「旧弊打破」であり、この旧弊のなかに国語もふくめられ、その種の科目はいっさい組み入れられていない。その後、文部省にたれがそう献言したのか、「外国では自国のことばについてさかんに教授している。中学に国語科を設けねばならない」ということで、真之らが入学して二、三年経った明治十四、五年ごろ、はじめて国語科が松山中学にも設けられた。ところが、英語のばあいよりも教師をみつけるのに難渋し、結局、神主でもやとうか。とまでなったが、そうもいかず、とにかく旧藩時代に多少国学をやった者をつれてきて教壇に立たせた。

引用:坂の上の雲

ん?コトバがムツカシイヨ。恥を承知で簡単に意訳すると、

「江戸時代の古い習慣を改めよう」という世論の中で、国語科は学校に設定されていなかった。しばらくして「外国では国語も熱心に教えているらしい」と、聞いてあわてた文部省は、急いで国語科を付け加えた。しかし、国語科(この場合は古文のこと)を教えられる教師は誰もいなかったから、適当にみつくろって先生になってもらった。

というお話。

『坂の上の雲』が史実に基づいたドラマだとするならば、今の学問の源流はこのあたりなのだろう(もちろん太平洋戦争後に連合国によって教育方針は大きく矯正されているだろうが)。何を感じたかというと、

え?安易すぎないか?適当過ぎないか?そんなに適当に決めたことで教育なんか行っていいのか?

ってことだった。もう一度繰り返すけれど、『坂の上の雲』が史実に基づいたドラマだと信じるのならば、これは本当に驚きだった。当時の海外列強諸国の教育を真似ることが、学校教育の源流にあったこと。何気なく教育を受けてきたけれど、科目設定の源流と考えられる歴史に触れたのは『坂の上の雲』が初めてだった。

ちなみに、このときに設けられていた科目は、

「漢文、英語、数学、理科(物理、化学、博物)、図画、体操」

引用:坂の上の雲


と、ある。(博物ってなんだろう)
これ、今とほぼ同じだ。国語 算数 理科 社会。社会が無い。太平洋戦争を経ても、大きく変わらなかったのであろうか。(太平洋戦争後に教科書に墨が入れて思想の規制があったことは知られている。太平洋戦争は、年代によってはいまだにホットな話題であるため、僕としても何が史実なのかが判断できない。情報が規制されているように感じることがある。)

ということで、例を挙げたように、時代の流れによって教育の内容はころころ変化するものである。『坂の上の雲』の時代は、学校の門をたたく生徒も、すなわち学ぶ側も、何を学べるのかを考えて、選び取っていたのだろう。しかし、現在は、義務で学校に通う時代である。だから、「教育されるとおりに教わっていると、それは学問ではなくなってしまう」のだ。そろそろ誰かお偉いさんが声高に宣言する必要があると思う。

教育を抜け出そう

国の歴史や時代背景によって、学校教育の内容は「ころころと変化するもの」である。そして「ころころと変化するもの」であることは、よほどの観察力の持主でないと、教育の中で気がつくことはない。教育されるとおりに教わっていると、それは教育ではなくて、だんだんと洗脳になってしまう。だから「学校で教えてくれることなんか、真に受けちゃいけない!」

学校で教わることなんか世界のほんの一部にすぎないという概念や、自分が教わったことだけがすべてであるという概念、学校で教わること以外にも学ぶことはたくさんあるという概念に、どこかで気がつく必要があるのだ。

「教わる」という受動的な考え方から、「学ぶ」という能動的な考え方にシフトチェンジする必要がある。教わっているうちはいつまでも教育である。自ら学ぶことによって、教育を抜け出すことができる。そしてそこに学問が生まれる。

やべー。テーマが壮大すぎて、うまくまとまる気がしないけれど、次回に続く。




落ち込んだときには↓こちらがおススメ↓
【落ち込んだ時に】は『風の歌を聴け』 - ほんわか鉄子さんを探して
【落ち込んだ時に】世の中なんて思い込みだ - ほんわか鉄子さんを探して

カメラと写真に関しては↓こちらがおススメ↓
カメラ&写真好きあるある#001 - ほんわか鉄子さんを探して
写真系ブログが続かない本当の理由 - ほんわか鉄子さんを探して





---この記事の完成度は100%です---

にほんブログ村 鉄道ブログ 江ノ電へ
にほんブログ村

プライバシーポリシーと広告について