読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

学問に対する考察#002【シリーズ】

雑記 思考のチェンジ

スポンサーリンク

風呂敷を盛大に広げすぎた感が漂っている。どうやってたたもうか。「学校で教わること=すべて悪」ってそういう話ではない。学校の授業で教わること、受験を通じて(試験の点数を稼ぐために)学べることは、単純に無味乾燥なものではない。とても有意義なものにもなるし、とても無意味なものにもなる。

江ノ電の写真とブログ
[ Located in : 江ノ島電鉄沿線 2016年12月 ]
[ Camera : PENTAX K-5ii ]
[ Lens : PENTAX smc PENTAX-DA 55-300mmF4-5.8ED ]

情報と知識と知恵の違い

口を開けてエサが詰め込まれることを待っているだけでは、何も生まれない。同様に、大量のエサがばらまかれている状態で、それを無作為に大量に詰め込む作業をしていても、何も生まれない。学校教育は得てしてこういう状態におちいりやすい。だからよくある質問がこれだ。「そんなこと勉強して何の意味があるの?」ごもっともだと思う。用意されたエサを食べた量で評価が決まる。これが今の学校教育の1つの側面だ。

そう、この段階では、情報と知識の区別がついていないんだ(知識と知恵の紐づけも行われていない)。必要だと思えない情報をどれだけ詰め込んでも、それは暗記して点数が取れるだけで終わってしまう。エサという情報を知識に昇華させることが大切なんだ。エサをかみ砕いて消化するんだ、時間はかかるかもしれないが、あなたの血となり肉となる。そうすれば、その作り上げた知識という肉体は様々なことに応用ができる。そして、その知識という肉体を何にどうやって使うのか、これこそが知恵なんだ。

ん?いきなり論理が飛躍してしまったかもしれない。具体例を挙げてみる。コンビニでお釣りをもらう。お金の勘定には簡単な算数が必要だ。算数は算数として学ぶだけならば、ただの数の取り扱いに関する死んだ情報だ。けれども、コンビニのお会計で(偶然にも)お釣りを取り違えて損しないように、少しの確認をするかもしれない。その確認の時に使う算数は、死んだ情報ではなくて、立派な知識となってあなたの中に生きている。損しないために、取り違えていないかどうか確認すること、この知識の応用こそがあなたが働かせた知恵である。

学校教育では、得た情報をどのように取捨選択して知識として身に着けて、それをどのように応用して知恵として活用するかという、最も大切な部分の説明がきれいに省かれている傾向にある。これはとても残念だけれども事実であろう。

教育機関は上手に利用するものだ。食べたいエサという情報を無限にそして自由に選べる環境が用意されている。お金もかからない場合が多い。学生ならば時間だって自由にある。誰にも邪魔されない。そうやって蓄えた知識という眼で世の中を眺めてみればいい。そこには多くの気づきがあるはずだ。

だまされないために、損をしないために、知識は必要だ。嘘と本当を見分ける能力は知識なしにはあり得ない。嘘と本当を十分に見極めた結果、嘘だと判断するのか、嘘だと判断しても本当だと判断したかのように行動するのか、それこそが生きていくうえで必要な知恵である。

知識には、「良い」知識、「悪い」知識という修飾語は使わない。「必要な」知識、「不要な」知識という言葉があてはまることが多い。しかし、知恵には「良い」知恵、「悪い」知恵という言葉が当てはまる。ここが、知識と知恵の最大の違いである。持てる知識を最大限に活用して、必用とあらば情報を取捨選択して、良い方向にも良くない方向にも知恵は働かせることができるのだ。

なんとか風呂敷をたたみつつ、次回で学問はどうして必要なのかという話に着地できるはず。つづく。

この記事の続きです↓



落ち込んだときには↓こちらがおススメ↓
【落ち込んだ時に】は『風の歌を聴け』 - ほんわか鉄子さんを探して
【落ち込んだ時に】世の中なんて思い込みだ - ほんわか鉄子さんを探して

カメラと写真に関しては↓こちらがおススメ↓
カメラ&写真好きあるある#001 - ほんわか鉄子さんを探して
写真系ブログが続かない本当の理由 - ほんわか鉄子さんを探して





---この記事の完成度は100%です---

にほんブログ村 鉄道ブログ 江ノ電へ
にほんブログ村