のるまで るこう

み み

寒くなり(おふとんゴロゴロ)今日この頃

自由を感じる瞬間

自由であること

自由に対する議論

自由である
『 自己肯定感と満足感の境界線 』

書きたいことを順番に書こう。

1つめ。はてなブログシステムのhttps化だかssl化だかは、(詳しい名称は知らぬ存ぜぬが)きちんと行われるのだろうか。行われぬのならば、別のサービスに移行しようか。はたまた、別にそんなの関係ないし?と開き直るか。

『個人的な』サイトとして(ささやかな)お小遣い稼ぎすることを理想状態と考えている以上、そこまで型にはまる必要もないと思う。だけど、流行として禁煙が推し進められているなかで、いつまでもその流れに乗れない喫茶店のようにはなりたくはない。

2つめ。このところ自由を感じる瞬間が、ものすごく多い。体調を崩してから、『早く元に戻らねば』だったり、『早く仕事をせねば』という気持ちを、無意識のうちに少なからずいつも感じていた。だけど、最近それらが「すっと」無くなって消え失せた。

きちんとした仕事をすることや、結婚することなど、そういったある意味での洗脳的なウンヌンカンヌンを未来に、そして個人的な将来に期待することを辞めた。するとどうだろう。今のこの状態は、ものすごく居心地がよいのである。

本当に大袈裟ではなく「数年ぶり」に心が休まっている感じがする。開放感であふれている。本当に何にもないのだけれど、仕事があって、付き合う人がいて、休日がどたばたと流れていた日々よりも、充実感を感じることができる。なんだこれ。

晴れた日の朝は風が気持ちよく、コーヒーを買って本を読みながら、洗濯をして午前中を過ごし、午後は図書館にこもって専門書を読む。夕方が近づくとカメラを持って夕焼けを撮る。たったこれだけの繰り返し。

誰かと話すでも、行楽地にでかけるでも、買い物をするでもなんでもないんだけれど、本当に何にもない自分が、何にもしない生活をしているだけで、信じられないくらいに安らぐ。楽しいわけではないけれど、満足感にあふれる感じ。

去年の今頃は、虚無感といわれるような感覚を、多くの時間、抱(いだ)いていたように記憶しているけれど、そういうのはまるでなくなった。何もせず、ボケっとしているだけで、とくに何も感じなくなった。

へんな焦りや、義務感がなくなった。誰に期待されるわけでもない、誰かのために生きるわけでもない。自分の人生である。このままキリギリスな状態を続けていたら、いつか住むところも無くなってしまうかもしれないけれど、それはそれでいいじゃないか。

もちろん、結婚して、子供ができて、わちゃわちゃやっている友人の話を聞くと、それはそれで楽しそうに感じるけれど、そういうのを自分がやりたいかと言われたら、魅力的ではあるがそうでもない。という1つの結論に達したのだろう。

そのことに対して、いい歳して、家庭も作らないで何をやっているんだ論を振りかざすおじさんおばさん達もいるのかもしれないが、僕は別に彼らの言いなりとなるような人生を送りたいわけではないし、そういう「ナントかであるべきだ」論に対して、それはそうかもしれないが、『僕は違う』を覚えただけなのかもしれない。

というか、そんなちっぽけなことに、しょんぼり悩んでいた自分にふとした瞬間に気がついたというほうが、正しいのかもしれない。誰が何と言おうと、それは誰かの人生であって、僕の人生ではない。ものすごく幼稚で、当たり前な話に聞こえるかもしれないが、ようやくそんなことに気がつき、納得することができた。

雨の日は、洗濯はやめて、しれっと朝から本を読めばいい。小雨ならば傘をさして散歩すればいい。コンビニの軒先のコーヒーはおいしい。

家族に生まれ、周りの子供とともに学校にかよい、それが当たり前のように洗脳されるテレビを見て、両親を見て育ったからには、誰もが苦労せずそうなるものだと信じていた。だけど、自分の場合は、どうやら違うらしい。

ちょっと前におじいちゃんが死んだ。結局は、いつか死ぬのだ。天国があるのかどうかは知らないけれど、何も持っていけないし、誰にも止められない。そんなことを間近に感じたこともあって、誰かの言いなりに生きようと、自分勝手に生きようと、生きつくところの先には『死』だけが待っていることが、よく分かった。

幸か不幸か、精神病になってみて、多くのことに気がついた。結局は、すべては自分の頭の中の想像であり創造でしかない。誰かという存在そのものも、物質的な有無の先に、概念となって、脳内に再生される像でしかない。現実の物体と、脳内の像は、同じモノであり全くのベツモノである。

人間とは恐ろしいもので、無視しようと思えばまったくもって無かったものにできる一方で、物質として死んでしまった人間を、いつまでも心の中に記憶しておくこともできる。このあたりの言葉遊びは、それはそれでおもしろい。

生きている状態を、常時的に能動的な上書きが行われる状態と定義するのは強引かもしれないが、なんとなくそんな気持ちにもなる。さらにおもしろいのは、こんなことを1ミリも考えないで、のほほんと生活しているような人もいるということだ。

自己肯定感というものは、どんな形であっても少なからずの満足感を生み出すものだと思うが、満足感というものは、自己肯定感を必ずしも生み出すものではないと思う。誰かが喜ぶから満足であったとしても、自らの存在を否定している場合もある。

そういうことだ(どういうことだ?)。

3つめ。くたびれ気味のコスモスよりも、お隣の猫じゃらしの方が、よっぽど美しい夕暮れであった。そのうちちゃんと書き直そうと思う。

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